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久しくブログを書いてなかった。思索用のツイッターは結構回してたけどね。
その思考について言及するつもりはなくて、最近osuをちょこちょこやっているという話。
前は6をFC出来るようになってきたと言っていたけどもう6後半であれば頑張ればFC出来そう。というのが大半になってきた。実際にはリトキチを大量に必要とします
それで上手くなった視点で改めて自分の譜面を見ると、何というか配置が浅めで淡泊なものが多いなという感じ。
正体を知っている人向けに分かりやすく言うならtojita sekaiとかdrainとか。
あれらは一応昨今の時好がコンセプト兼AIM譜面ということにも肖れて人気は出てるけど譜面としては下の下とまでは行かないけど失敗作だと感じる。
ここまで語気を強めるのにも理由があって、俺は過去最高傑作だとさえ思っていたんだよね。
その原因は解釈の多様性に欠けているということがあって、Drainもtojita sekaiも「退廃/無機的な空間」だったり「機械と人間の心のブレ」であったりをテーマに据えてるんだけど(これは本当に伝われば良いなくらいの気持ち程度で、tojita sekaiは分かってくれアピールでハートと歯車のスライダーを入れるという何とも安直な手法に走ってる)、
それが6分超えを通してその一つのコンセプトでまとまっているが故に、「いつまで同じことしゃべり続けてるんだコイツ」みたいなコミュニケーションエラーが生じやすい。
ここでの反省点は結局原点回帰で「考えていることを悟られないように精一杯思索の限りを尽くす。」かなと思う。
コンセプト主義も思考表現も手法の一つであってそれが大義たりえることは表現の性質上あり得ないことかと思っていて、それは結局俺が実用的に使っている表現は結局受け手ありきなんだよね。それは未来の自分も含め。
文化的で自意識を持った人間であればあるほど、他人の存在というものに対して敏感だと思う。
「演出家は演出が上手いと思わせたら負け」という理由もここにあって、それが結局作者のエゴや人格の肥大化につながると、見ている側はその人格を認識せざるを得なくなって「楽しい」と感じる思考エネルギーを使わなくて良い余計なことへ使ってしまって、結局楽しさが減ってしまう。という体験をよくするから、まぁ結局は経験論なんですけど。何が正しいのかこれもうわかんねえな
まぁそれでここ最近並行して気が向いた時にmoddingしてるんですけど、これも本当に辛い。
最低限、「この譜面を好きになっても良い」という技術的保障を維持しながらも、味や解釈を理解して増大させていかないといけないから
一言に「moddingの上達」と言ってもmoddingのすべてが技術的向上によって譜面にとって健全で良い変化をもたらすなんてことは絶対にあり得ないと思うんですよね。人間である以上。
ただK.Y.A.F.Aのmoddingに関しては技術的保障もしつつ味を増幅出来た良い例だと思うので、近々あげる予定で乞うご期待。
もう一つ言わせてほしいものがあって、最近に作った譜面が下手すぎ。というより、テストプレイやmoddingを適切に贔屓目なしで見られるようになる期間が長すぎ。
例えばIcarusとかあれは確か10~12月あたりに作ってたけど殆ど最近になるまで全く改善点が分からなかったし、譜面の出来としても見た目だけを気にした本当につまらなく何の感情もない模写譜面の典型なんだよね。
そこまで言える譜面が半年近く経たないと問題の一つも分からないっていう一種の盲目状態、これはあかんですよ。ゲームとして。
思うに俺が「頑張れば出来るようになるかもしれない」水準の譜面が好きで、それを作る際に自分がそれに合わせて成長する。ということが前提になっているせいだと思う。
昔はosu自体にモチベあったし、ランカーになるくらいまでやりこんだレベルの月もあったから、それが成り立っていたけど、最近はまったり「上手くなれば良いな」くらいの気概で遊んでるからその間隔が長いんだろうね。
現に上手くなった今問題点は見つかっているわけだし。
だからself-modをするためにはたくさん他人の譜面をやらなきゃいけないわけだ。
口で言うのは簡単だけど継続してやるのは難しいね。何せ50譜面残ってるわけだし。