考える振りをする人

あまり人前では言う機会のないことを書くメモ的ななにか

Foo~~

生活リズムが酷すぎる

無気力が服を着て歩いてる他に表現が見当たらない。コラボもぶっちしてるし他人とのコミュニケーションでは相変わらず感情を制御出来ないし基本的に有言不実行だし。

この有言不実行というのが俺の生まれつきの素養であるのかはたまた現況そうなっても仕方がない精神状態であるのか、この状態が人生において長すぎて最早よくわからないけど。よくわからないが自分なりに足りない頭を稼働させて考えてみたが。

何故俺は無気力かということを考えてみたけど、まずコミュニケーションが怖いというのが挙げられるんだよな。

考えることでも話すことでもなく、会話することが怖いと思ったその根拠はひとえに「考えを整理する独り言であれば流暢に話せる」ということだと思われる。そしてその会話が怖いという恐怖感が考えることや話すことに対しても伝播するというのが根が深くて厄介なところ。結果早く会話を終わらせたい一心で気心の知れない人間にはわざと会話が失敗に傾くように無意識のうちに仕組んでいるんだと思う。

これは別に悪いことではないとは思う。実際他人を気にしている精神的余裕なんて無いし。それは程度問題はあれどだいたいの人間が共感できると思う。

しかし俺の場合の問題点をあげるとすれば、「他人との付き合いに利害を求めている」ということなんだよな。

あの人と遊びたい。何故か。自分が良い人になれるから、自分にとって得になるような出来事があるから等、逆も然り。

他人と付き合う「必要がないところ」で何故付き合うのかというと、それは自分に得があるからなんだよな。一緒にいたい、遊びたい、考えを共有したい。逆も然り、嫌な人がいればその人と付き合う必要もなければシャットアウトすればいい。ほーーーーん へーーーーーって適当な相槌を打ってあぁそうですかへいへいそれはご立派なことでってやってみせれば良い。

ただそれに傾倒しすぎると大変な欠陥があることに気づいた。

自己哲学では自分を最も気心の知れた他人と俺は置いているんだけど、その、他人との利害関係や無害化欲求を突き詰めすぎると、いざ自分との対話や大切な哲学的思考のうちでどうしても甘言が出る。

実際自分にとっての「害」を見抜くというのはとても難しく曖昧なことで、何故晦渋かといえばそれが状況によっていかようにも変化するということなんじゃないか。

人格否定された。害か否か考えましょうと言われても自分の体感的な解釈と客観イメージがかみ合っていないかもしれない。少なくともその人のいう事は耳にしなくて良いかもしれないけどそういったきらいは自分のどこかで感じている。って時に、利害関係を突き詰めすぎているとまるで耐性がなくやられてしまう。ということが往々にして起こる。これが恐らく自分が批判が苦手な理由の一つだと思う。少なくとも原始的なところでは。

結果それが逃避行となって思考や行動指数に表れる。

正直なところこれが特効薬ですご堪能あれ。みたいなことは存在しないと思っている。けども、状況を客観視して蟠りを一度言語化するというのは対抗策としてはありだなと思った。実際にそんな状況に出くわしたら感情に阻まれて難しいとは思うけど。

不承的な感情を非共感と置くのならそれもありかな

それにその度にトレーニングの機会が出来たと考えれば一応そんな状況にも意義があるものだと運命的楽観主義みたいに捉えられるんじゃないか?

考えに考えて柔軟さや中庸性を保とうとすると他人とのコミュニケーションを隔絶しがちっていうのは難しい問題だけどね。コミュニケーションが難しすぎて自己満足に走るのもそれは違うわって話だけど、中々それを直観的に理解するには至らない。何故なら他人に興味が湧くどころか自分に対しても努々興味が湧いているとは言い難いし。